開通後わずか15年で廃線-出石鉄道廃線跡を訪ねてー
兵庫県北部に位置する豊岡市。かばんの産地として知られる人口8万人ほどの街です。一方、現在豊岡市となっている出石(いずし)地区(旧出石町)は、出石藩の城下町として栄えた歴史を持ち、現在でも但馬の小京都として知られています。兵庫県北部に山陰本線が計画された時、この出石を通るか、通らないかで、いくつかの案が出されましたが、結局、出石地区は通らないことに決定。山陰本線は和田山から円山川沿いに豊岡市中心部へと抜けるルートとなってしまいました。
その結果、城下町だった出石地区は鉄道の恩恵を受けられないことになり、地元の手で山陰本線と結ぶ軽便鉄道の建設が進められることとなりました(写真は山陰本線江原駅)。この辺りの事情は、同じ兵庫県内の城下町、篠山と似たところがありますね。
それでは、今回の位置図です。豊岡駅の南東に出石地区がありますが、軽便鉄道は出石の西方向にある江原駅と結ぶように建設されました。図中の四角は、これから示す詳細図の範囲。図1、図2、図3として、以下掲載していきます。
では、その図1です。出石鉄道は、現在の江原駅北側から、すぐに東方向に分岐。難所を避けるように、うねるような線形となっていました。
1番地点です。山陰本線から、すぐに右方向へ分岐していた地点ですが、カーブの痕跡は、ほとんど残っていません。出石鉄道の休止は昭和19年(1944年)であり、すでに71年が経過しています。
しかし、その先は、住宅街の中の路地として現存。(2番地点)
3番地点で、円山川を渡る鉄橋に向けて、一気に左急カーブ。しかし、この道はカーブ最初の部分だけが鉄道跡であり、この道よりも更に急カーブで廃線跡は左手の建物部分へと入ってしまい、追跡できません。
円山川を渡っていた地点(鶴岡橋梁跡地・4番地点)です。右手に残っている橋脚は、旧国道のもので鉄道のものではありません。出石鉄道は左手の山際から、川向こうに見えている藪付近(一番左の橋脚の真上付近)へ向けて渡っていました。
その後は、のどかな田園風景を行くコース(5番地点)。
しかし道は、急に二股となってしまいました。6番地点です。ここからは農地として整地されてしまい、痕跡が残っていません。廃線跡は、ここから正面に見える、山の左端へ。
続きの図(図2)です。
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田園地帯を抜けた鉄道は、7番地点で山のすそ野へ。ここには見事な築堤跡が残っていました。今にも、小さな汽車が向こうから姿を現しそう・・・。
そして、7番地点の少し東側、小川を渡る部分には橋台の跡も。
鉄道は山すそに取り付き、築堤で徐々に高さを上げていきます。この写真では、道の右側に見えている斜面の上が廃線跡。(8番地点)
そして9番地点です。ここから正面の山(ほぼ写真中央から右付近)へと渡っていました。ここは大築堤を築いて、向こう側の山へと入っていましたが、後年、全て切り崩され、痕跡は残っていません。
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しかし山を登りきった片間峠(10番地点)には、はっきりとした廃線跡が残されていました。国道482号線と並んで峠を越える、廃線跡。
鉄道開通は昭和4年。それから、わずか15年で戦時中の不要不急路線に指定となり、鉄路は失われました。ここに響いた鉄道の音が戻ることは、もうありません。
その先で、国道482号線から右に外れるように分岐する道(11番地点)。この付近も当時は築堤で高さを稼いでいたようですので、これは廃線跡ではないようです。
その先にはホームらしき跡が、分かりやすく残っていました。地区的に小坂村駅跡と言えそうですが・・・実は、これはよく分かりません。
終点、出石まであと少し。図3です。
12番地点から国道482号線と分かれ、廃線跡は再び田園地帯へ・・・。
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13番地点まで来ました。舗装道路ではなくなり、ここに鉄道が走っていたことを実感できるような風景。
そして右カーブして、鳥居地区に入ります。
鳥居地区には、鳥居駅のホーム跡が残っていました(14番地点)。高さも大きさも大したことはなく、知らなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうなほど。
その直後、わずかに残る路盤跡。この先は、出石川の崖にとりつき、山の向こう側へと抜けていきます。
そして15番地点です。途中まで国道426号線となっていますが、右へとカーブする国道に対して、廃線跡は、このまま直進。
廃線跡の道が現われると、終点「出石駅」は、もうすぐです(16番地点)。
そして終点「出石駅」付近に到着しました。出石グランドホテルの東側、この写真より右側が出石駅の構内。と言っても出石の町に近いせいか、建物も多く建ち並んでおり、駅があった痕跡は、ほとんど残されていません。
゜
しかし道路沿いの空き地に、よく見るとホーム跡が残されていました。分かりにくいですが、縦方向にのびている白いコンクリートが、かつてのホーム。70年以上経った現在でも、ここに鉄道が来ていたことを示す、貴重な証拠です。
そして出石駅跡から、出石町の中心部へ。
出石藩の城下町として栄えた出石は、出石そばを始め、名物もたくさん。GW間近の町は観光客も多く訪れていました。
そして、お知らせです。
豊岡市にある豊岡市立歴史博物館「但馬国府・国分寺館」では、5月6日までの予定で「最初で最後の出石鉄道展-休止70年記念-」を開催中です。
先ほど訪れた出石鉄道の図もありました。やはり小坂村駅と思えた地区(11番地点)には、駅の表示はなく、こちらでは12番地点に大谷駅となっていますね・・・。
少し謎が残りましたが、展示内容は豊富で、貴重な資料もたくさん。
ちょうど郷土史家、中村英夫さんの講演も行なわれており、部屋は満員となっていました。
山陰本線のルートから外れ、鉄道の恩恵を求めながらも、わずか15年で消えた軽便鉄道。休止から70年以上、地域にくっきりと面影を残す、出石鉄道廃線跡でした。
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その昔、日高劇場という映画館で映画「君の名は」を見た覚えからYouTubeで今再びそれを見て感動!?しております。ふと何気なくページをめくっていますと「出石鉄道」が飛び込んできました。出石鉄道の在りし頃の展示会があったそうですが、貴重な写真の数々ありがとうございました。
尚、昭和34年ころですが、私が鶴岡城あとの高台から煙を吐きながら豊岡方向に向かう列車を撮影したものに出石鉄道の橋脚が映っていますのでよろしければお送りしますがいかがでしょうか。
投稿: 上村惟允 | 2016年7月24日 (日曜日) 14時30分
上村様、コメントありがとうございます。
出石鉄道は短命に終わった鉄道だったようですが、現地には、いまだに数多くの痕跡が残り、小さな軽便鉄道の走る姿を思い浮かべながら散策致しました。
昭和34年頃の写真とのことですが、大変ありがたいお申し出ながら、当方はブログ内(ネット上)のこととなりますので、実際にお送り頂く方法としましては、いろいろと難点があろうかと思います。データとしての送付が可能なようでございましたら、一度、プロフィール欄に記載しておりますメールアドレスまで、連絡をお願い致します。
投稿: いそしず | 2016年8月 7日 (日曜日) 11時57分
突然ごめんなさい。42年前に出石の廃線跡を訪ねました。もう忘れかけていました、江原で出石鉄道の企画展があることを知り42年前の写真を持って出かけました。また、講師のお話も興味深く聞きました。イソシズ様も出席をされたのですね。42年前に泊まった宿屋の家族の方にあうことができました、当時のご主人はお亡くなりになってました。このご主人は元出石鉄道の職員さんです。出石駅の所に農協の倉庫がありホームの跡がありました。講演会できっとイソシズ様は私の顔を見られたと思います。講師に質問をしましたので。この鉄道の開業検査に坂を上がることができず。許可を貰うのに苦労をしたそうです。中古の線路を左右を変えて使うために粘着係数が不足します。では、
投稿: 42年前に廃線跡訪ねました。 | 2017年11月16日 (木曜日) 00時38分