阪神間の弾丸列車構想ルート完結編-そして舞台は神戸市へ-【第五章】
東海道新幹線の原型となった戦前の高速鉄道構想、弾丸列車構想。大阪以西は計画が白紙撤回となったことから山陽新幹線としては利用されず、その当初の構想ルートは歴史の扉の向こうに消えようとしています。第一章では、現在伝わっている、様々な噂や想定ルートを検証。第二章では当時の資料と、新しい見方から尼崎市と西宮市のルートを推定。第三章では西宮市から芦屋市を実際に歩き、当時日本最長として計画されていた六甲山トンネルの位置を比定。第四章では新大阪周辺の現地状況から、大阪市内における弾丸列車の構想ルートを考察しました。その結果、阪神間の全貌が次第に明らかに。いよいよ今回は、歩き残していた大阪市内から尼崎市内へ。戦前の弾丸列車構想ルート、阪神間の完結編です。
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※この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用しています。利用の目的第8項、サイズ規定5枚までの3枚に該当。
こちらの図(図1)は第四章の最後に示した、大阪市内の弾丸列車建設推定ルート(以下想定ルート)です。今回は、この図の左側、阪急宝塚線三国駅から北へ少し行った場所、想定ルートが神崎川を渡るポイントだった地点(図の1番)から、兵庫県側を目指して。想定ルートをたどる長距離ハイキングに出発です。
まずは、その1番の地点にやってきました。西側から神崎川を挟んで新大阪方向を望んでいます。右に見えるのが株式会社大和工場、左に見えるのが水谷ペイントの工場です。想定ルートは、この正面、ちょうど住宅が立ち並んでいる場所。
そして振り返ってみるとこんな感じ。ここからは大阪府豊中市となります。いきなり住宅密集地の裏路地となっていました。ここから、まずは阪急宝塚線との交差地点へと向かいます。
少し広い道に出ました。想定ルートは写真右側付近。
小さな川を渡ると、住宅が建てこみ、裏路地でも追跡できません。南側の路地に迂回すると、すぐに阪急宝塚線が見えてきました。少し北へ戻って、この写真付近が想定線とのクロスポイント。阪急宝塚線は国道176号線と、このすぐ先で立体交差しており、すでに築堤で高さを上げ始めています。新聞記事にあった「さらにその上を跨ぐわけである」とのポイントはここだった訳ですね。
阪急宝塚線を越えると、駐車場や日出町公園となっており、すぐに国道176号線と交差します。そこは「阪急バス本社前」交差点付近。すぐ北側に、国道176号線(産業道路)を越える阪急宝塚線のトラス橋が見えました。
そこからは西へと伸びる県道とほぼ並行。ちょうど想定ルート上の部分で、県道の拡幅工事が行なわれていました。想定ルートは正面に見えるホームセンター「ダイキ」の敷地内へと続きます。
最初の図(図1)の範囲を越えました。ここ以西の想定ルート図(図2)はこちら。第四章の大阪付近の考察により、第二章で検討した2本のルートのうち、園田の陸軍衛生材料庫の南側を通過するルートとなっています。1番、2番の位置は、図1と同一。それでは、現地の様子を更に見ながら西へと向かいます。
ホームセンター「ダイキ」を抜けると、想定ルートは庄内神社の南側(3番)を通過。写真は庄内神社です。1912年(大正元年)10月に、勅令により地域の社を合祀して建てられたもので、今年はちょうど100年の節目に当たります。
庄内神社の南側を抜けると、スーパー「ライフ」の北側、第七中学校の南側をかすめて、阪神高速11号池田線を横断。大阪脳神経外科病院の南側から工場地帯に入ります。写真は4番付近。大阪方向を見ています。想定ルートは、ここから阪急神戸線へ。
阪急神戸線を横断し、すぐ続けて大阪府と兵庫県の境となっている旧猪名川を渡ります。写真は想定ルート上より、北西へと進む阪急神戸線を見たところ。
そして旧猪名川を渡って、兵庫県尼崎市に入りました。と言っても旧猪名川を渡る地点に橋はありませんので、ここは、かなり南側まで迂回しなくてはなりません。旧猪名川と猪名川に挟まれた南北に細長い土地。想定ルート上まで戻ると、そこに不思議な地形がありました。図の5番です。ここだけ旧猪名川と猪名川を東西につなぐように、築堤のような土盛りが続いていました。写真は猪名川側から撮影。なぜ、ここだけ東西に土を盛っているのでしょうか。ここは弾丸列車の想定ルート上に当たることからも、無関係とは思えない構造物です。
そして、西方向へと振り返ると、猪名川が見えました。ここから、続けて藻川を横断、尼崎市高田中継ポンプ場の北側を通過します。ここは、すぐ南側に山手幹線道路の大きな橋が架かっているので、追跡は容易。
そして6番、尼崎市営額田団地付近を通過。
ここで、第二章の図を再度見てみましょう。この図では額田団地は数字の5番が表示されている付近。このまま西へ直進すると、1番の工場(利昌工業)の南側にある尼崎浄水場の敷地に突き当たってしまいます。尼崎浄水場は昭和17年に給水を開始しており、この施設も弾丸列車構想が具体化している時期での完成ですので、このまま直進は現実的ではありません。
ということで、想定線は緩いカーブを描きながら、徐々に北へ。小園小学校の敷地付近から旧陸軍衛生材料庫の南側(図2の7番)を進みます。ここは旧陸軍衛生材料庫の敷地が南東から北西方向に斜めに伸びていましたが、現在は区画整理で東西南北の街路となっているため、正確に追跡できません。旧陸軍衛生材料庫跡は、学校などの他、関西電力や産業技術総合研究所、日本電気計器検定所など、現在でも国の機関と関連の深い施設となっています。
そして想定ルートは歴史地区「近松の里」へ。広済寺、そして須佐男神社の南側(図2の8番)を通過します。もともと、弾丸列車構想のルートが浮かび上がってきたのは、この地区を訪ねたことがきっかけ。第二章から3ヶ月。お礼参りのような感覚で、参拝していきます。
須佐男神社を抜けると、日立の社宅「ユース近松」(図2の9番)を通過。社宅などとなっているのは、西宮市内と共通です。この後は、上坂部集会所を通過し、JR宝塚線(福知山線)塚口駅の南方を横断。
そして住友ベークライトの北側の敷地(当時は工場拡幅前)を抜けて、昭和17年操業開始の利昌工業の北側(図2の10番)へ。
そこからは、西へ向かう一直線の道路と並行しています。想定ルートは、この道の南側部分。
そして、想定ルートは園田学園女子大学の敷地に入りました。この学校は、現在の園田学園高校の位置に1938年(昭和13年)に園田高等女学校として開校し、1966年(昭和41年)に、この地に大学が開校しています。
園田学園女子大学を通過すると川を渡って、立花北小学校(昭和53年開校)北側を通過。住宅密集地に突入しました。路地を縫うように西へと向かいます。
そして想定ルートは阪急武庫之荘駅の南側にある広大な大井戸公園へ。阪急三国駅から想定ルートまで行きつ戻りつ、約13kmほど歩いてきました。
そして大井戸公園の西側で、南北に走る県道42号線と交差。写真は想定ルート上から北を見たところ。県道は北側にある阪急神戸線を乗り越すためスロープとなっていますが、その勾配は実に緩やか。実はこの県道は、宝塚尼崎電気鉄道が宝塚を目指して建設していた鉄道路線の跡。結局、宝塚を牙城とする阪急の妨害もあって開通することなく、戦時中に道路として転用されてしまいました。もし、この鉄道が開通し、弾丸列車が山陽新幹線として結実していたら、ここで山陽新幹線をアンダークロスし、すぐに勾配を登って、続けて阪急神戸線をオーバークロスする・・・そのような鉄道風景が生まれていた訳ですね。
そして、想定ルートは1571年から鎮座しているという、歴史の深い上守部素盞嗚神社(かみもりべすさのおじんじゃ)の北側を通過。ここまで来ると、武庫川はもうすぐ。
第二章で決定的なポイントとなった武庫川を通過します。
そして武庫川を渡ると、すぐにJR西日本松山寮がありました。これは国鉄官舎として昭和30年代初めに建設された建物。なぜ昭和30年代、しかもJR東海道本線から離れた阪急神戸線、西宮北口駅の近くに国鉄の官舎が建てられたのか・・・その疑問に、今なら明確に答えることができます。
そして、再び阪急の西宮北口へ。
大阪から西宮までの想定ルート上に点々と連なる、70年間の歴史。歴史に埋没していたかに思えた阪神間のルートは、これで全て明らかになりました。もちろん、これは地域に残る様々な状況証拠からの1つの結論に過ぎません。しかし実際に歩いてみると、ここに山陽新幹線が疾走していた可能性を、確かに感じることができる。。。弾丸列車構想は、歴史のかなたに消え去った訳ではなく、確かにこの地に眠っていた。そう思えた17kmのウォーキングでした。
それでは、最後にもう一度、阪神間の主な通過地点です。
1、国道176号線、阪急バス本社前交差点付近
2、庄内神社南側付近
3、広済寺(近松公園)南側付近
4、利昌工業北側付近
5、園田学園女子大学付近
6、大井戸公園を経て尼宝線と交差
7、JR西日本松山寮付近
8、阪急西宮北口駅付近
9、越木岩の送電線を経て、六甲山トンネル入口へ
長期間に渡る調査にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。阪神間は、これで全て終了です。この後、弾丸列車の構想ルートは六甲山のトンネルを抜けて、いよいよ神戸市内へ・・・神戸市内は山地や丘陵地を抜けていく関係から、現地の物証に乏しく、ルートの推定は非常に困難であると思われます。そのため、第五章まで重ねてきた当シリーズは、今回で完結と考えておりました。しかし、夏の間に調査を進めたところ、神戸市内で興味深い謎、そして事実が次第に明らかに・・・次回、第六章へと続きます。
★調査地点は神戸市内へ・・・続きはこちら★
神戸の山中に眠る弾丸列車構想-新神戸駅と謎の軍用道路-【第六章】
★前回までの弾丸列車構想については、こちらをどうぞ★
西宮市に残る日本最古の「ねじりまんぽ」と謎の貨物線ー近代化への痕跡ー【序章】
幻の新幹線計画(大阪-神戸)-闇に消えた弾丸列車構想-【第一章】
よみがえる大阪-神戸の弾丸列車構想-知られざる近代化への道-【第二章】
日本最長のトンネル計画-国鉄の描いた弾丸列車構想-【第三章】
混沌と矛盾の新大阪駅-戦時下に隠された弾丸列車構想-【第四章】
★廃墟・廃線跡関連は、こちらもどうぞ★
六甲山に眠るロープウェイ駅の廃墟-幻の六甲登山ロープウェイ-
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いそしずさん 今晩は
五章を読み早速東三国~北口間を二日に分け歩いて来ました。
◍東三国蒲田神社北~自敬寺までは旧道があります。
田岡化学南の西三国2には、築400年超の渡邊邸がありましたが解体中でした(涙)。
◍大和工場~阪急バス本社前は道が無いため能勢街道を北上、阪急宝塚線・国道176号線を横切りました。
◍阪急バス本社~庄本は府道152号を歩き、途中庄内神社などに立ち寄りました。
◍今回注目したのは旧猪名川を挟んだ庄本(椋橋総社)と戸ノ内1(築堤)でした。
旧村部住民の反対により今も山手幹線は国道176号線と繋がっていません(汗)。
築堤は東西水路の堤防だったのでしょうか?
◍戸ノ内橋~JR塚口で一日目終了(近松の里でお弁当、3神社にお詣り)。
◍二日目はいそしずさんのご案内どおり西進、上武庫橋を渡り北口駅まで(地元なのでスイスイと)。
県道42号線(尼宝線)はよく通りますし、鉄道計画・バス専用線の話も存じてます。
沢山お賽銭は使いましたが、お陰様で楽しい小旅行ができました(笑)。
ありがとうございました。
投稿: 難波のやっちゃん | 2012年10月11日 (木曜日) 20時15分
難波のやっちゃんさん、こんばんは。
第四章から少々間が開いてしまいました・・・お待たせいたしました。夏の間に2度ほど、現地を訪れたのですが、1度はいきなりの雷雨に阻まれ、2度目は猛暑で踏破を断念致しました^^;
というわけで結局、涼しくなってからの現地調査となってしまいましたが、私は阪急宝塚線三国駅から大阪市内をカットした形でのスタート・・・当然、話の流れから言えば御堂筋線の東三国駅からスタートが完全な形ですので、その完全な形で巡って頂き、恐縮至極でございます。ご紹介の通り、自敬寺までは旧道があり、想定ルートは寺の北側を通過する形となります。関西電力西三国変電所が目安となると思います。それにしても、大阪で最も古いと言われている渡邊邸がそんなことに・・・驚きました。
本文では構成の都合上、割愛してしまいましたが、ご指摘の椋橋総社も想定ルート考察の上で重要なポイントとなった地点です。ここも敷地は回避して北側を抜ける形となります。山手幹線道路は、兵庫県と大阪府の境界部分で、見事に未完成・・・そのため、ここはかなり南へ迂回して対岸へ渡ることになりますね・・・
西宮市の大谷町から始まった弾丸列車構想を完全に追いかけて頂き、本当にありがとうございました。第六章の神戸市内は山間部に点在する形となりますので、かなり厳しい状況ですが、現在も鋭意調査を継続中です。年内には、第五章までの記事に関連した報告もありそうですので、よろしければ引き続きご覧下さい。今後ともよろしくお願い致します。
投稿: いそしず | 2012年10月15日 (月曜日) 23時58分
はじめまして。尾張民の、のびてつと申します。たまたま、五新線関連の記事を見つけ、流していたら、この記事群にあたりました。一通り、新大阪から姫路界隈まで拝読いたしました。
さて、元の投稿から大きく時間は経っていますが、この件につき、私にある記憶があるので、お書きしようと思います。それは、国鉄清算事業団の土地売却のことです。今から10数年前、東京駅向いにあった、旧国鉄本社ビルが解体されるとき、内部の見学会がありまして、当時、亀岡市在住で学生をしていた私は、見に行ってきました。それはそれで有意義だったんですが。これも清算事業団の土地売却の一環だったわけですが、ある一角で、全国の物件を紹介するコーナーがあり、つまりは「営業」をされていました。いかにも官僚です!という感じのオジサンたちが何人も立って、説明やパンフの配布をされていました。そこで、ある物件を目にしていたら。
土地というのは、その目的のようなこと、地目の、もうちょっと詳しい用途が、たいてい登録してあるようですが(例えば公園とかダムとか)。その一角にあった物件群には「弾丸列車」と記してありました。そういうのが、関西~広島市内まで、確か4か所くらいあったと記憶しています。そこで、「官僚」なオジサンに、これは何か?と尋ねてみると、つまりは、取得時に付けた用途のようなことが、そのまま変更されずになっているということのようでした。もうちょっとお話しを伺うと、やはり戦前の弾丸列車計画のときのものだろうと考えられるが、そのことを知る職員もいないので、その記述からの、常識的な推測しかできない、つまり、詳しいことは分からない、ということでした。確かに、平成の御世になってますから、当然とは思いましたが、同時に、ちょっと興味深いこともおっしゃってました。用地買収されたと言っても、当時のことだから、憲兵か警察かが、サーベルをガチャつかせての用地取得だったかもしれない、というようなことを、先輩職員(つまり国鉄官僚ですね)から聞いた覚えがある、というのでした。時代背景からして、戦後のような地権者優位の交渉ではなかっただろうとは、想像できますし、さもありなんなお話しでした。とにかく、資料だけでも欲しかったので、その販売リストを貰ってきました。
さて、その場所なんですが、ひとつは広島市内で、これが西端だったと思います。で、亀岡から比較的近いところで、西宮市内のがありましたから、実際に見に行ったのですが、よくわかりませんでした。当時は、電子地図もないし、市販の市街図しかないのに加えて、卒業・引っ越しも近く、時間もなかったので、行けたのは、何かの用事のついでに、夕暮れになってから、少し歩いただけだったので、分かるはずもありません。とにかく覚えているのは、西宮北口駅の北西側徒歩10分前後の圏内だったということです。広さも、通常の住宅を建てるには少し狭い、というくらいだったと思います。なので、ますますわかりません。
そんなこんなで、もうずいぶんと時間が経ちました。そこでこの記事を見つけ、懐かしく思うわけです。ちょうど、西宮北口付近のルートについて、私の記憶あるあたりも、遠くないように思えますし、堂々と清算事業団の資料に書かれているので、関わりはあろうと思います。しかし、残念なことに、この記事を拝読してから、その資料があるハズの押し入れの中を探そうにも、長年の鉄グッズやら使用済みきっぷやらの山で、まだ発見できていません。処分した可能性もあり得ます。ない場合は、記憶だけのこととなり、根拠をお示しできないことになってしまいます。あるいは、運輸公団の、現在のその部署にて、何か資料が残されているかも分かりませんが、そこまでするゆとりも根気もありません(泣)。
とにかく、お伝えだけでもしたいと思い、筆を執りました。何かの一助となれば、幸いです。なお、当方は現在、実家である愛知県尾張地方在住で、自宅の近くには、「弾丸列車」の末裔が、毎日200キロ以上で走っています。これも何かの縁かもしれません。
投稿: のびてつ | 2014年10月13日 (月曜日) 12時26分
のびてつ様、こんばんは。
ご訪問、ありがとうございます。そして貴重な情報を頂きまして、誠にありがとうございました。清算事業団の資料の存在は、私も聞いたことがあります。この資料の存在から推定したルートを、森口氏が「鉄道未成線を歩く-国鉄編-」の中で明らかにされていますが、西宮北口駅の北西側の位置を(だいたいの場所でしたが・・・)紹介しておられましたので、多分、訪ねられた位置と同じ場所ではないかと推察されます。その他は、姫路市内と、広島の用地を紹介しておられました。
戦前の弾丸列車計画ルートにつきましては、様々な方面から反響を頂き、兵庫県内につきましては、おかげさまで、ほぼ計画ルートの全線が明らかになってまいりました。西宮北口駅付近は、どのように阪急を越える予定だったのか、これまでのブログ記事では詳しく書ききれておりませんので、後日、追加記事を出す予定でおります。また、資料が乏しい区間につきましては、今後も推定を重ねていく作業とはなりますが、次回の第十章検証編で、新大阪-新姫路までを、ほぼ完結したいと思っています。次の新岡山まで続けられるかは、まだ分かりません。。。広島付近もかなり具体的に進められていたようですので、何とかそこまでつながれば、、、などど妄想を膨らませてしまいますが、現時点では難しいと考えています。
現在の新幹線につながった、高速鉄道構想の一端でも明らかになればとの思いで、個人的に調査を続けてきましたが、最初に西宮市の大谷地区を訪ねた時には、ここまでの話になるとは、私本人も思っておりませんでした。きっかけとは、本当に運命的なものだと思っています。至らぬ表現や考察も多いかと思いますが、ご興味を持って頂き、ありがとうございました。今後とも、よろしくお願い致します^^
投稿: いそしず | 2014年10月15日 (水曜日) 23時53分
こんばんは。さっそくのRe、ありがとうございます。
森口氏は、お名前は存じてますが、著書を読んでいないので、そこで清算事業団の用地のことも触れられているとは、知りませんでした。あまり「知ったか」になるようなことを書くのも、気が引けるなとも思ったのですが、そういう見学会があった、という雰囲気も兼ねてお書きすれば、自分なりの表現になるかな、という気持ちも込みで、投稿致しました。ただ、さすがに方々に撒いた資料ですし、やはり注目するところからは注目されていたわけですね。それはそれで、よかったと思います。
それにしても、用地について、戦後に返還運動があったというあたり、やはり、戦時下での用地取得が、平時のやり方ではなかったということでしょうか。こればかりは、あまり確かなことは言えませんが、むしろ私などは、そちらが気になりだしています。ま、本当にオーラルヒストリー的な伝承になりますが。
それと、広島でも用地があるということは、やはり都市部から先行して着手していたということなんでしょうかね。あるいは、神戸同様、山がちな地形だから早めに、ということも、あるかもしれませんね。想像は膨らみます。
ともかく、お伝えできただけでも、私としては気持ちが済んだような、そういう気がします。それだけ、あの資料を見たときの驚きは、大きかった。本当にびっくりでした。
五新線の記事も、先日乗りに行ったときに、大いに参考になりました。これからのご投稿にも、期待申し上げております。
投稿: のびてつ | 2014年10月16日 (木曜日) 21時36分
そういえば、西宮北口の駅前にも国鉄の官舎があったはず。
津門川沿いにいろんな会社のアパートがたくさん並んでいて、いまコナミになってるところが国鉄と阪急広場だった気がする。
投稿: のぶ | 2015年12月11日 (金曜日) 19時49分
のぶ様、情報、ありがとうございます。
西宮北口駅での交差の仕方には、いくつか考えられるルートがあり、当記事内でも詳細に検討できておりません。西宮北口駅前の国鉄官舎も無関係ではないと考えられます。阪急の西宮北口駅構内に、大きく影響する計画だったはずですので、阪急側にも何か資料が残っていると面白いのですが。
見た資料の中では、少しカーブを入れて、斜めに横断するルートが有力ではないかと思っております。また煮詰まりましたら、ブログ内で報告したいと思いますので、よろしくお願い致します。
投稿: いそしず | 2016年1月11日 (月曜日) 11時05分
初めまして、西宮出身の太田拓也と申します。
ありとあらゆる知識を動員しての弾丸列車ルートの特定恐れ入ります。
西宮北口付近の詳細はよくわかっていないのですね。
今の情報ですと北口駅構内をモロに横断する形になってしまいます。
当時も車庫やダイヤモンドクロスがあってかなり複雑でしょうし
南側に西宮球場もあったので大きくルートをいじれないはずです。
大阪駅の高架化で揉めた阪急に何の相談もしていないというのも考えられませんし。
今でも甲東園に新幹線駅をという話があるのですが
もしこのルートで建設されていたら後年駅設置の話が絶対あるはずで
西宮北口駅は阪急最大のターミナルになっていたでしょうね。
投稿: 太田拓也 | 2016年6月 2日 (木曜日) 08時28分
太田拓也 様
初めまして。弾丸列車の記事に興味を頂き、ありがとうございます。
西宮北口駅の横断は、大変大胆な構想であり、最初、私自身も大変驚きました。その駅の越え方については、現時点では考察するような記事はまだ出せておりませんが、現地周辺の痕跡と、最近発見された資料から、ほぼ推定できる状態になってきております。ご指摘のように、当時は阪急側に何らかの打診があったはずであり、資料や言い伝えが残っているのでは、とも考えておりますが、残念ながら、阪急側からの資料は、見つけるに至っていないのが現状です。
現時点では、阪急の車両基地は避け、西宮北口駅付近をそのまま横断と考えておりますが、もし、そのまま建設されていれば、確かに新幹線駅が設置された可能性もあった訳で、空想は膨らみます。阪急西宮北口駅は、幼少の記憶もあり、私にとっては特別な存在の駅です。弾丸列車構想の記事は、現在第弐部として姫路-岡山への調査に移っておりますが、西宮北口周辺は、もう一度記事にしたいと考えております。今後とも、よろしくお願い致します。
投稿: いそしず | 2016年6月 2日 (木曜日) 23時22分