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2012年7月 2日 (月曜日)

混沌と矛盾の新大阪駅-戦時下に隠された弾丸列車構想-【第四章】

戦前に計画され、現在の新幹線に結びついたと言われる弾丸列車構想。大阪以西は昭和30年代に破棄されたため、その建設予定地がどこだったのか、概要は歴史に消えようとしています。西宮市大谷町の序章から始まった、前回第三章までの考察で、兵庫県側の六甲山に至る区間については、ルートが浮かび上がり始めました。これが大阪側までつながる時、遂に阪神間の全体像が見えてくることになります。果たして、現在も残る現地の様々な状況証拠から、ルートを推定することは可能なのか。。。阪神間の全貌を目指して。第三章からの続きです。

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ということで、いきなり現在の新大阪周辺の地図(図1)です。ポイントとなりそうな場所を、まず着色してみました。1番はこの地区に古くからある蒲田神社。2番は明治43年まで、この地にあった須賀神社跡・・・この神社は弾丸列車計画時には、当然すでに存在していないのですが、この件はまた後ほど。3番は左側が淡路中学校、右側が淡路小学校。4番は1925年(大正14年)に完成した国次霊園、5番が延原倉庫、6番は1934年(昭和9年)創立の西淡路小学校、そして7番が淡路地区の住宅街となっています。そして第二章でも述べましたが、JR東淀川駅付近が当初の新大阪駅予定地であったこと、そして現在の新幹線が新大阪駅に向かって左急カーブ(7番の枠内のカーブ部分)となっているのは、新大阪駅の位置を(現在の位置に)変更したためと言われています。

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こちらが、その急カーブ地点です。前方が東京方面。後ろが新大阪方面。直進する道路に対して、新大阪方面へと大きく外れていく様子が分かります。噂の通り、これが現在の新大阪駅に行くためのカーブならば、単純に考えれば直進しているこの道路が、本来の予定線ということになりますが・・・。

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そして、その広い道路は、西側でわずかに南にカーブして、東海道本線の下をくぐっています。こちらは、その交差地点。これは、最初の図1のAルート(下側の矢印)になります。同じAルートの上側の矢印は、単純にそのまま直進させたもの。他にも、東淀川駅間近を通過するなら(図1)Bルートも考えられますが、先の急カーブが現在の新大阪駅に行くために建設されたという前提なら、元々の計画が、このような線形であるはずがなく、無理がありそうです。また7番の淡路の住宅街が、すぐ東側に広がっていることも考えると、東淀川駅に直進で来ることも難しそうで、どうも現実的ではありません。(図1)Cルートは現在の新大阪駅の位置だった場合に考えられる別ルートですが、これは第二章の当時の新聞記事で否定されていますので、今は考えないことにします。

とりあえずAルートが可能性としては高そう。しかも東淀川駅に少しでも近い地点に新幹線駅を造るとすれば、直進していくのではなく、現在の広い道路が走っている方のルートが可能性が高いのでは、とは言えそうです。しかし予想程度の話に過ぎず、他に根拠もなく、それ以上の確定的なことは何も言えません。

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そして問題は、新大阪駅部分だけではありません。こちらは新大阪駅から西側へ行った三国から庄内付近の地図(図2)です。第2章の考察で重要なポイントとなった産業道路と阪急宝塚線の交差地点。しかし、ここにも大きな問題がありました。東側を中心に多くの工場が建設されていたのです。1番は三栄源エフ・エフ・アイの工場、2番は吉村油化学株式会社、3番は株式会社大和工場です。4番は3つが隣接していて、上側からミクニプラスチックス株式会社、水谷ペイント株式会社、そして田岡化学工業株式会社(敷地はいずれも当時の範囲)。そして、これらの工場は全て戦前から存在しており、それぞれの歴史は下記の通り。

1、三栄源エフ・エフ・アイ・・・三栄化学工業所として1931年(昭和6年)に創業。1941年(昭和16年)に食用タール色素の官封第1号に指定される。

2、吉村油化学株式会社・・・1922年(大正11年)に創設。繊維工業用石鹸や羊毛紡績用油剤を主に製造。

3、大和工場・・・明治時代の設立で主に脱脂綿を製造、1944年(昭和19年)には本社をこの地に移転。

4(上)、ミクニプラスチックス株式会社・・・当時は三国セルロイド株式会社。1927年(昭和2年)にダイセルから分離。

4(中)、水谷ペイント株式会社・・・1922年(大正11年)創業。当時は水谷ワニス・ペイント工場で、1941年(昭和16年)に日東電工と強制統合、戦後分離。

4(下)、田岡化学工業・・・1919年(大正8年)の創業で、1944年(昭和19年)に合成フェノールの製造を開始。

これらの工場は、産業道路と阪急の交差地点から東へ向かうルートを完全に遮っており、また、その歴史からも、無視することもできそうにありません。それどころか、これらの工場は「あること」を示してさえいるように思えて来るのですが・・・その話は、また後ほど。いずれにしても、弾丸列車のルートは浮かび上がるどころか、かえって混沌とした謎に包まれるばかり。有力な手がかりもなく、新大阪周辺は完全に五里霧中の状態となってしまいました。大阪では兵庫県側のように現地の様子から、ルートを浮かび上がらせることは無理なのではないか・・・本当にそう思いました。

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それでも何か、微かな手がかりがないか・・・現在の東海道新幹線をもう一度見てみることにします。再び、東淀川駅近くに戻って、東海道新幹線高架橋の真下にやってきました。場所は、最初の図(図1)の4の数字のすぐ下付近。ここに中島大水道新太郎松樋の跡が残っていました。中島大水道とは、江戸時代前期に地元民によって築かれた排水路のこと。淀川と神崎川に挟まれたこの地域は、大変水はけが悪く、その排水のために全長9.7kmに及ぶ排水路を築いたと伝えられています。当時は幕府からの反対などもあり、抗議の切腹事件も起こったとのこと。そして時代は明治となり、淀川大改修によって、近代的な治水工事が完了。中島大水道もその役割を終えました。跡地は、しばらく放置されていましたが、後に埋め立てられ、現在は史跡として一部保存されています。そう、今では中島大水道跡が東海道新幹線の敷地として利用されているのです。

用途を失っていた中島大水道跡を利用すれば、住宅街の買収も必要なく、建設も容易に新大阪駅に達することが出来る・・・この事実は、なぜ東海道新幹線が急カーブで新大阪駅に向かっているのか、1つの答えにはなりそうです。しかし、これは東海道新幹線建設時の話であって、弾丸列車の構想ルートとは何の関係もありません。まるで気分は尼崎市の時のよう。。。地図を見ながら中島大水道跡の碑を見つめます。

・・・?

B400

それは、本当に微かな疑問でした。広域の図(図3)です。東西方向を少し圧縮して表示しています。最初の図(図1)の範囲は、赤い四角部分。その中の★印が今の中島大水道新太郎松樋の位置です。濃い青色のラインが東海道新幹線。そして、そのまま西に直進するように伸びる緑色のラインが最初に見た、道路部分となります。そう、気になったのは東側・・・なぜか、こちらにも同じように、反対方向、今度は東へと直進する道路(緑のライン)がありました。どちらも東海道新幹線から分岐しているかように見えます。西側の道路が弾丸列車予定地かも知れないと言うのであれば、東側の分岐はいったい何なのか・・・初めて、これは何だろうと疑問に思ったのです。

そして、その道路の行き着く先・・・中島大水道から4km近く離れた、右側の★印で見たもの。それは意外なものでした。

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それがこちら・・・いえ、これは淀川です。★印から望んだ雄大な淀川の眺め。梅雨空の河川敷には、少年野球のグループの声が響いていました。。。すみません、問題はこちらではありません。

それでは、改めて西を向いて見ると・・・

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!?

これが東海道新幹線から東へ分岐しているように伸びている道路です。広い道路ではなく、中央部分は公園と細長い駐車場となっていました。そしてそれを挟むように、両側に細い道路が続いています。幅は、かなり広く、何かの建設予定地にも見えます。これは一体、何なのか・・・鍵は、この写真の右下付近にありました。

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こちらです。三千橋と書かれています。橋と書かれていますが、どう見ても周囲には地面しかありません。

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そして、前方の駐車場部分にも、このようなものが。どう見ても橋の欄干です。そう、これらは全て、当時の橋の跡。公園や駐車場となっていたのは、実は埋め立てられた川(用水路)の跡だったのです。

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そして、その名は、三千樋。

明治の淀川大改修が終わったことで、反対に水が引けなくなったこの地域の田畑を潤すため、三国、十八条などを経て、西淀川区の大和田まで達する、全長26km(分流も含む)に及ぶ大規模な農業用水路が建設されました。三千樋は、淀川右岸唯一の樋門として設けられた、いわゆる取水口。しかし、その田畑は都市化の進行とともに急速に減少し、昭和30年代頃から次第にその役割を終えていったと言われています。

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こちらは三千樋からの用水路跡の脇に、今でも残る貴重な水田。今では、想像するのも難しいですが、かつては広大な田園風景か広がっていた・・・道路と思っていたのは、実は用水路の跡だった訳ですね。

そして、それと弾丸列車と何の関係が・・・?

もうお分かりでしょうか。そう、それでは矛盾があるのです。

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こちらは三千樋の西側です。新大阪方向を見ています。東海道新幹線が右側から合流してきました。東海道新幹線のこの区間は、三千樋からの用水路跡を利用して建設されたことになります。そして考えなくてはならないことは、この用水路は、その淀川大改修によって田畑を潤すために建設されたということ。。。

そう、ということは、弾丸列車構想時には、このルートはあり得ない。戦前という時代、周囲はまだ田園風景であり、すでに役目を終えていた中島大水道とは違い、三千樋からの用水路は現役として利用されていました。その用水路を潰して建設することは、当時としては不可能。ということは、図1のAルートは、そもそもあり得ない。東海道新幹線が新大阪駅へ向かって急カーブしているのは、三千樋の用水路と中島大水道、双方の水路跡を利用したためであり、三千樋の用水路が現役だった頃の弾丸列車構想とは、何の関係もないことになってしまうのです。

また、大変なことになってきました。それでは、いったいどこを予定していたというのか・・・

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もう一度、図1を見てみましょう。最初に紹介した通り、1番から7番まで様々な障害があり、用水路を潰せないとなると一気にハードルは高くなります。いえ、むしろ建設できそうな場所はほとんどなさそう。。。それでは、ここから一気にポイントを見ていきましょう。

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まずは図1の7番、淡路の住宅街の中です。場所は、水色で示したJR貨物線と東海道新幹線の交差部、南東側付近。ここに公園があり、巨大な碑が立っているのが見えました。見えにくいですが、淡路區劃(区画)整理記念碑と書かれています。字体からしても、少し古いもののようですが・・・

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裏に、昭和拾四(14)年とありました。そう⑦番の阪急淡路駅周辺は、昭和14年には区画整理事業が行なわれていたのです。阪急淡路駅には淡路本町商店街も1921年(大正10年)に完成し、この周辺は活気にあふれていました。

C400

こちらは、当時の淡路の区画整理図から作製した土地の利用状況(薄い赤色が宅地、緑色が田園)です。図1の赤の四角の範囲となります。分かりやすいように、現在の鉄道路線と区画整理記念碑の位置も表示してみました。上に見えているのが三千樋からの用水路。区画整理後であっても、用水路付近には田園が広がっていたことが分かります。反対に、南側はほとんど宅地。阪急淡路駅に近付くほど、通過は困難と言えそうですが、この区画整理事業では、弾丸列車建設に備えた配慮らしいものは見られません。

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そして図1の2番、須賀神社跡です。この神社は明治43年に中島惣社へ合祀となりましたが、跡地は地元の方たちの強い要望で残されてきました。境内には樹齢600年の大くすがあり、天然記念物に指定されています。

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そして3番の淡路小学校、淡路中学校です。写真は淡路中学校。ここは少し複雑で、元々は現在の淡路小学校の位置に淡路中学校が開校しました。1950年(昭和25年)のことです。淡路中学校は1957年(昭和32年)に現在地に移転。跡地を利用するように1958年(昭和33年)に淡路小学校が開校しています。

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そして、その淡路小学校の東側に、とんでもない建築物がありました。それは正面、右に見える黒っぽい建物。

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近付くと、こんな感じ。古いコンクリート製の不思議な建物。形状はほぼ円形。近くに、もう1つ同じようなものがあるのを確認できました。建物に隠れて見えないものが、更にもう1つあるとのことで、全部で3つ残っているそうです。

★↓写真をクリックすると拡大表示します↓★

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離れて見た姿はこちら。これは、なんと戦時中に建設された高射砲台なのです。建設は昭和18年とも19年とも言われていますが、どちらにしろ戦時中の建設で疑いはありません。当時は半円状に6基が配置され、柴島(くにじま)の浄水場を守ったとも言われていますが、どうも役目はそれだけではないようです。

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まとめた図(図4)がこちら。水色のラインは三千樋からの用水路。昭和10年に創業している参天製薬も記載してみました。注目は、現在の延原倉庫(図1の5番)の位置。実は高射砲台の北側に当たる現在の延原倉庫の位置には、当時は兵器工場が存在していたのです。当時の大阪は、大阪城周辺の大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)を始めとした巨大な軍需産業都市であり、周辺部にも軍需工場が多数存在していました。先の三国から庄内の工場群も、そのような軍需に応えていたことは(生産品目から見ても、時代背景からみても)明白であり、戦時中に機能が強化されていたのは当然とも言えます。

そして当時の弾丸列車も、当然そのような軍需工場に影響が出るような計画だったとは考えられません。地域には大切にされている神社(神域)もあります。そして三千樋からの用水路も使えない。。。とすれば図4で建設できるラインは大変限られたものになる・・・そう、もう何か浮かび上がって来ませんか。

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それは参天製薬の南側を通り、高射砲台の北側を抜け、淡路中学校の敷地を貫通し、須賀神社跡地の北、そして蒲田神社の北側を抜ける1本のルート(緑色)でした。淡路中学校は1950年代後半、この弾丸列車構想が完全に潰えた跡地を利用して、移転開校したと考えられます。これは西宮市でみた跡地が、1950年代後半に様々な施設に利用された経緯と重なります。そして、三国の工場群も含めれば、よりはっきりしてきます。

★↓写真をクリックすると拡大表示します↓★

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※この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用しています。利用の目的第8項、サイズ規定5枚までの3枚に該当。

それが、こちら。主なポイントのみ表記した、すっきりした地図にしてみました。(赤い数字1番と2番は次章の第五章で取り上げます) その他の色塗りのポイントなどは、これまでの図でご確認下さい。現地の様々な状況から、大阪側の弾丸列車構想ルートは、この位置であると結論付けることができます。そして新大阪駅の建設予定位置は、東海道本線との交差地点・・・つまり現在の東淀川駅の北側付近と推定できるのです。

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最後にもう一度、須賀神社跡、樹齢600年の大クスです。この街の歴史を見続けて。弾丸列車構想ルートを追う今回の新大阪編では、大阪の治水の苦労、軍都としての発展、そして戦後に押し寄せた都市化の波を垣間見ることができました。そして、ここまで来れたことに感謝し、この神社跡に一礼して現地を後にします。こうした地域の熱意が歴史をつくり、また地域には、その歴史がしっかりと刻まれているのですね・・・

最後まで、お読み頂きありがとうございました。

次回はいよいよ阪神間の完結編(第五章)。新大阪から新神戸へ、浮かび上がった弾丸列車構想全ルートを、更なる検証を加えながらたどりたいと思います。

★続き、阪神間の完結編はこちらをどうぞ★

阪神間の弾丸列車構想ルート完結編-そして舞台は神戸市へ-【第五章】

★前回までの弾丸列車構想については、こちらをどうぞ★

西宮市に残る日本最古の「ねじりまんぽ」と謎の貨物線ー近代化への痕跡ー【序章】

幻の新幹線計画(大阪-神戸)-闇に消えた弾丸列車構想-【第一章】

よみがえる大阪-神戸の弾丸列車構想-知られざる近代化への道-【第二章】

日本最長のトンネル計画-国鉄の描いた弾丸列車構想-【第三章】

★廃墟・廃線跡関連は、こちらもどうぞ★

旧国鉄五新線(阪本線)を訪ねて【第一部】-

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コメント

 いそしずさん 今晩は
昨日 山手幹線(武庫之荘~久々知~戸ノ内)・産業道路(庄本~庄内)と歩いて来ました(汗)。

扨て此処からが大変です(笑)
豊南には東西の道路もありませんし、神崎川が(涙)。
で、いそしずさんは東淀川区・淀川区に土地勘はお有りなんでしょうか?
此の第四章の記事と地図を参考にマピオン上で予習、駅や小中学校、神社は判りますが想定ルートを歩くことは至難の業です。
資料と実査で予想ルートの検証を繰り返し、一つ一つつぶす作業に頭が下がります。 
歴史や神社跡、旧河川(用・排水路)跡にも興味を引かれます。

愈々 完結編を愉しみに待ち、秋から何度かに分けて歩こうと考えています(多謝)

難波のやっちゃんさん、こんにちは。
いつも、ご覧頂き、ありがとうございます。さっそく武庫之荘から戸ノ内、そして豊中市内を歩かれたんですか(驚)
いそしずは、神戸市から西宮市、宝塚市は馴染みの深い地域なんですが、大阪寄りは普段訪れる機会も少なく、今回のように詳しく歩き回ったのは初めての場所もありました。構想ルートは、毎回地図で確認しながら歩くルートを決めておりますが、実際現地では路地に入り込んで進むような場所も多く、まるで迷路に迷い込んだようで楽しい部分もあります。ただ、ご指摘の通り全てが道路となっている訳でもなく、敷地をたどっていく作業ですので、橋のない河川や、立ちはだかる工場、学校などの施設を迂回するとなると、大変な行程となりそうですね。
今回(第四章)の大阪側の検証によって、豊中市内は兵庫県側から想定した場合より、工場などの歴史から若干南よりのルートとなりそうです。次回、詳しくたどってみたいと思いますので、ぜひ参考にしてみて下さい。次回、最終章で阪神間は終了です。ブログで紹介し切れなかった部分は、また詳しく公開したいと考えております。進展次第では、神戸から姫路も考察したいと考えておりますが、神戸-明石は山地が多く、推定が困難となっております。今後とも、よろしくお願い致します。

三千樋を検索していて出会いました。淡路在住65年です。弾丸列車の話も聞いていましたが、興味深く拝見しました。お近くに来られる機会がありましたら是非お声を掛けて頂きたいと思います。歴史に詳しい方も居られますので。宜しくお願い申し上げます。

残念ながら高射砲台跡のうち二つが解体されてしまいました。

自由空間倶楽部 様
拙い記事に興味を頂きまして、ありがとうございます。西宮をきっかけとして、戦前の弾丸列車構想を掘り起こす記事となりました。明石の調査を続けておりましたが、ほぼ終了し、大阪-姫路の全体像がつかめてきたような気がします。今後、大阪ー姫路をまとめる上で、大阪の一部区間について再調査する予定ですので、機会がございましたら、こちらこそよろしくお願い致します。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。

phosphorus様
情報、ありがとうございます。解体されたとのこと、大変残念です。都市にあっては、こうした遺構は次第に消えていく運命なのかも知れません・・・地域に残る状況証拠からの推定記事でしたが、こうした現実を見ると、時と共に少しずつ遠くなっていくような気がします。

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