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2012年5月19日 (土曜日)

西宮市に残る日本最古の「ねじりまんぽ」と謎の貨物線ー近代化への痕跡ー【序章】

芦屋市との市境に近い西宮市大谷町。ここにJRの広大な社宅群(JR西日本大谷町アパート)が立ち並んでいます。この社宅群の南側にはJR線が東西に走っているのですが、そのJR線と社宅群をつなぐように、不思議な一本の空き地が。

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それがこちら。JR線から、まるでカーブで分岐するかのように、JR社宅群のある山手の方へと続いていました。線路こそないものの、敷地には架線のようなものまで張られています。

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横から見ると、こんな感じ。どう見ても、まさに鉄道の築堤といった趣きですね。場所はJR線の「さくら夙川駅」と「芦屋駅」の中間付近で、電車の車窓からも山の方へと分岐していく、この架線柱の列を見ることができます。

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※この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものを利用しています。利用の目的第8項に該当。

今回の位置関係(図1)は、こんな感じ。ピンク色のラインで示した部分が、架線の続く築堤部分です。先ほどの写真は、図1の2番付近から撮影。その先には扇形に広がったJRの社宅群があり、まるで卓球のラケットのような形をしています。まさかJR(旧国鉄)社員の通勤用に特別に線路を敷いて、迎えの電車を走らせた訳でもないと思いますし、これは一体、何なのでしょうか。

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その社宅群へ行く前に、こちらは図1の1番です。JR線の下に、小さなトンネルの入口がありました。レンガ風の構造物で、大谷道と書かれています。

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内部は、人が通るのがやっとの狭さ。レンガ風に見えたのは、貼られていた保護シートの模様で、本物の煉瓦ではありません。

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しかし、よく見ると、破れた保護シートの間から、本物の煉瓦が顔を出していました。東海道本線、大阪-神戸の開通は1874年(明治7年)。日本最古の鉄道トンネル(石屋川トンネル、現存せず)も、この区間にありましたので、暗渠(あんきょ)とは言え、このトンネルも最古級の存在と言えそうです。しかし、更に注目すべきは、この本物の煉瓦の向き。トンネルの向きと並行に描かれた保護シートのレンガ模様に対して、見事に斜めになっているのが分かります。そう、この煉瓦トンネルは「ねじりまんぽ」になっているのです。

★参考写真★

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こちらは以前に訪れた、京都市内の「ねじりまんぽ」の写真です。正式には斜拱渠(しゃきょうきょ)と呼ぶもので、坑口(坑門)に対して斜めに坑道を通す場合にのみ、渦を巻くように煉瓦を積むという特殊な工法です。

★京都の「ねじりまんぽ」の記事はこちらをどうぞ★

南禅寺と琵琶湖疏水/京都初詣(2009年1月3日訪問)

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そして、この付近に現役として残る唯一の「ねじりまんぽ」が、この大谷道と書かれた「東皿池拱渠(きょうきょ)」です。拱渠(きょうきょ)とは、橋梁にするには長さの満たない暗渠(あんきょ)を表す専門用語。築造は、やはり鉄道開通と同じ1874年(明治7年)と思われ、当時は水路用のトンネルとして完成しましたが、1929年(昭和4年)に下部を掘り下げて、人が通れるように改修されました。これは現存する、日本最古の近代煉瓦トンネルとも言えそうですね。

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そして大谷道から北へ行った山手幹線です。この道路は、長く工事が続けられていましたが、2010年(平成22年)に全線が開通しました。山手幹線は戦後の復興目的に建設が決まった幹線道路で、計画されたのは1946年(昭和21年)。実に64年かけての完成となりました。そして最初に見た架線が、ここで山手幹線を横断しているのが見えました。

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山手幹線の北側、図1の3番から見ると、こんな感じ。左カーブした先が東海道本線です。実は、これは東海道本線の貨物支線の跡地を、送電線の敷地として利用したもの。

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振り返った場所には変電所がありました。JR西日本の芦屋変電所です。ここから東海道本線に電力を供給しています。この付近の電化完成は1934年(昭和9年)。

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そして、その裏手には社宅群の広大な用地が。実は明治時代、ここには山がありましたが、大正時代になり、その山の土砂を神戸港の造成や築堤の建設に利用。山は切り崩され、その土砂を搬出するために、貨物線が建設されたということです。当時は大阪方向、神戸方向、両方へと「ハの字」に敷設されていたようで、図1の青線付近が神戸方面の貨物線跡になりますが、カーブする市境部分にその名残をとどめる程度であり、現在は痕跡はほとんど残っていません。

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社宅群の西側、南北にまっすぐ伸びる道路。昭和初期までに山は全て切り崩され、広大な跡地には国鉄官舎、そして変電所が建設されました。昭和9年の電化工事で、大阪方面への貨物線は送電線用の敷地として利用されましたが、神戸方面への貨物線は放置され、後に宅地へと消えたようです。

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そして、こちらは大谷町の北側を行く阪急神戸線です。ここは六甲山から丘陵地が南に張り出すような地形となっており、阪急神戸線の線路も、ここは切り通しとなっていました。阪急神戸線の北側は高塚町という地区で、今でも山林が広がっています。

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その位置関係(図2)はこちら。大谷町から丘陵地が続くように、北側の高塚町があります。ここには古墳があるため、今でも一部は山地のまま残されているところ。

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大谷町で終わりにせず、そのまま北へとウォーキングを続けます。こちらは図2の4番。高塚町内の道路。

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ピンク色で示した道路を、更に北へ。まずは緩やかに右カーブ。

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そして、今度は左カーブ。勾配は緩やかで、いかにも何か由来がありそうな雰囲気ですが、先の貨物線は大谷町までであり、残念ながら、ここに鉄道があった歴史はありません。

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そして、道路は広い丘陵地へ。開けた場所に出てきました。ここまで緩やかな地形を北へと進んできましたが、実は、ここの東側部分は、急斜面で落ち込む崖のような地形となっています。

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その東側部分は、こんな感じ。図2の5番です。ここは高さ20mほどの急斜面となっており、西宮市側を見渡すことができました。

★↓写真をクリックすると拡大表示します↓★

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この斜面は、芦屋市側の丘陵地の縁に沿うように南北に続いており、西宮市と芦屋市の市境となっています。そして図2の6番付近から見ると、送電線の鉄塔が東へと続いているのが見えました。

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その鉄塔の真下に来ました。これは芦屋市の岩園変電所から出ている送電線です。正面に見えるマンション方向へと、一直線にのびていました。図2の緑のラインになります。

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再び図2の5番部分に戻って、西宮市側から急斜面部分を見上げると、こんな感じ。道路も、この急斜面部分に緩やかな斜度のトンネル(岩園トンネル・図2の赤ライン)を設けることで回避しています。実は、この地点からも、図2に青色で示した、緩やかなカーブの道が続いていますし、この付近の地形や道路などには、何か由来(謂れ)のありそうな雰囲気が、色濃く漂っていますね。

★青ライン部分については、こちらを参照下さい★

レンガ造りの明治隧道で聞くコンサート-神戸市兵庫区・湊川隧道-

※コメントを頂きました。ありがとうございました※

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東海道本線の貨物支線跡としては、ほとんど紹介されることもないまま歴史に埋まっている西宮市大谷町の送電線。そこには日本最古の「ねじりまんぽ」、大正時代の土砂採掘と国鉄官舎、そして東海道本線の電化など、日本近代化の歴史が隠されていました。そして、それに続くように北側に残る、謎めいた道路や地形。これらの中にも日本近代化の歴史が隠されているのでしょうか。。。

★今回は、数部(?)にわたる構成となります。続きはこちら★

幻の新幹線計画(大阪-神戸)-闇に消えた弾丸列車構想-【第一章】

★大谷町の土砂で建設、神戸港への廃線跡はこちら★

廃線跡ハイキング・神戸臨港線

★廃墟・廃線跡関連は、こちらもどうぞ★

旧国鉄五新線(阪本線)を訪ねて【第一部】-

六甲山に眠るロープウェイ駅の廃墟-幻の六甲登山ロープウェイ-

神戸異人館の廃墟 ペルシャの館

廃線跡探訪ハイキング 福知山線(生瀬-武田尾)

武庫川と廃線跡ハイキング 福知山線(道場-武田尾)

廃線跡ハイキング-テーマパークに消えた桜島線-

廃線跡ハイキング・福知山線支線、尼崎港線

市街地に残る鉄の道-姫路市・飾磨港線-

鍛冶屋線の廃線跡サイクリング【前編】-西脇市⇔鍛冶屋26.4km-

横浜臨港線から山下臨港線を訪ねて

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コメント

いそしずさん こんばんは
今日偶然に此の「ねじりまんぽ」を潜りましたヨ(笑)。

ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)を観た後、ブラブラと阪神香櫨園駅を目指して歩きました。
阿保親王塚を通り山手幹線を東進、さてどの辺りでJRを渡ろうかなとキョロキョロしていると、架線が視えやがて築堤が(吃驚)。
此の小さな煉瓦のトンネル 『斜拱渠』って云うのですね。

続編 愉しみにしています!

難波のやっちゃんさん、こんばんは。

ご訪問、ありがとうございます。東皿池拱渠に行かれたんですね。シートで保護されてしまっているものの、確かに「ねじりまんぽ」となっていました。レンガ造りとしては、日本最古のトンネルなのかも知れません。内部は1人が通過するのが、やっとというくらい。大谷町の貨物線跡といい、近代遺産とも言える地区だと思います。
そして、北側の地域も、負けず劣らず不思議な雰囲気がただよっていました。今回は、序章的な位置付けの記事となっていますが、この地区は、今後の続編でも重要な地区となっています。次回以降、と微妙な言い回しではっきりしない状況ですが、そんなに遠くはないと考えておりますので、ぜひ続編もよろしくお願い致します^^

楽しく拝見してます。

「この地点からも、図2に青色で示した、緩やかなカーブの道が続いていますし、この付近の地形や道路などには、何か由来(謂れ)のありそうな雰囲気が、色濃く漂っていますね。」

→「神戸水道道」です。神戸市民に向け命の水を作った道で、
ご記載のとおり古くからの由来あります道です。

三田市 ひろ

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E6%B0%B4%E9%81%93

ひろさん、こんばんは。
ご回答ありがとうございます^^
第三章の次の記事で、実は答えを出していたのですが、こちらの記事にリンクしておくのを実は忘れておりました。解答の記事にも気付かれたようで、大変恐縮です。
解答先へリンクを貼るよう、手直ししておきたいと思います。
神戸水道は、結局、まだちゃんと取り上げていません・・・また訪問したいと思っています。ありがとうございました^^

たまたま拝見したウエブページでしたが、ねじりまんぼだとは初めて教わりました。ありがとうございます。鉄道支線のお話、昭和初期の大日本帝国陸地測量部地図「大阪西北部」にも、図の青とピンクの線路(頭の欠けたΩ型の線路)が明示されています♪

そぞろ歩きのおじいさん様、コメントありがとうございます。
保護シールで分かりにくくなっていますが、斜め方向に本物のレンガが見えていますので、ねじりまんぽだと確認できました。貴重なレンガ積みのトンネルと思います。現役として使用されているという意味でも貴重ですね。何らかの案内板でも整備されると、いいのですが・・・。
昔の地図の情報、ありがとうございます。弾丸列車構想につきましては、次回で一旦完結と致しますが、引き続き調査を進めております。今後とも、よろしくお願い致します。

いそしずさん
こんにちは。西宮大谷町の廃線跡を調べるうちにたどり着きました。大変よく分かる資料で参考になりました。土砂を採取した跡なのですね。そしてそのラインは阪急線を超え岩園トンネル付近に至るラインに繋がっています。これも大きな発見でした。ありがとうございます。
さて、この阪急線の踏切(翠が丘踏切道)ですが、私は幼少の頃(昭和36年か37年頃ですが)、乗車していた三宮発の列車の先頭席で踏切上に立ち往生していた軽トラックに衝突した経験がある者です。切り通しの石垣に挟まれたトラックは電車のドアをぶち破り、車内に飛び込んできたのは「かしわ(鶏肉)」でした。木箱に入れられた鶏肉が車内に散乱し恐怖でした。このトラックが走ってきた踏切の山側に養鶏場があったのだろうかと探索もしています。旧国鉄廃線跡からこの踏切に話が続くとはまさか思っておりませんでしたので驚きのあまり書き込んでしまいました。

Go Teddy様、コメントありがとうございます。
大谷町の廃線跡は、明治時代の煉瓦トンネル(暗渠)もあり、大変興味深い地区でしたので、一度ゆっくりと見てみたいと思っておりました。大谷地区から岩ヶ平(岩園)地区へと続く、緩やかなカーブは、大谷町から引き続き貨物線を延長するには十分可能であることを示しており、ここが廃線跡+未成線であること、当初岩ヶ平から予定されていたという六甲山トンネルの掘削に伴う「土砂排泄鉄道」建設予定地であることを確信するに至りました。
詳しくは、この序章から続いております、弾丸列車構想シリーズに詳細に示しておりますので、ご興味があれば、ぜひご一読頂ければと思います。岩園-大谷の土砂排泄鉄道につきましては弾丸列車シリーズの第3章で詳述しております。
阪急の踏切事故、乗り合わせていたということで、驚きました。私などは、幼少の頃、阪急電鉄の先頭にばかり陣取って、前方風景にかじりついておりましたので、衝突事故などあれば、とても平気ではなかったと思います。思えば、この序章から阪急電鉄の西宮北口駅へとつながるルートを発見できた訳で、そう思うと阪急電鉄とも縁の深い調査でした。現在は赤穂線沿線に調査地点が移っており、この大谷町からは、ずいぶんと離れてしまいましたが、すでに90%ほどまとまっております。そう遠くないうちに、続編を公開したいと思いますので、どうかよろしくお願い致します。

いそしずさん
大谷町の廃線跡の歴史ですが、
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの古い地図で確認しました。
たいへん参考になりました。
ありがとうございました。

大正12年(1923)には線路が記入されていますが、
昭和7年(1932)には線路がありません。

リンクはOKとのことですので貼らせていただきます。

国土地理院 「地図・空中写真閲覧サービス」へのリンク

東蘆屋

大正12年 1923
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1670788&isDetail=false

昭和7年 1932
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1670789&isDetail=false

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