雪の晴れ間の福知山散策-明智光秀の城下町-
12月28日水曜日、クリスマス前から続いていた冬型の気圧配置が、ようやく緩んで穏やかな1日となりました。本日は北へ移動して、京都府の福知山市へ。
ということで、青空の福知山駅前に到着しました。福知山市は京都府の北部、由良川の盆地に出来た城下町で、人口は約8万人。大阪からの福知山線と、京都からの山陰本線が合流し、舞鶴、宮津、そして豊岡、城崎方面へと出ることの出来る交通の要衝です。
駅の案内板を見て、まずは福知山城へ。地図の右端の方、丸い緑地で描かれている場所が福知山城です。北側一帯には、城下町らしい入り組んだ街並みと、「呉服町」「長町」「紺屋町」などの独特の地名も見ることもできます。
その福知山城は、こちら。福知山城の建つ、標高40mほどのこの地には、元々塩見氏の築いた横山城がありましたが、1579年に織田信長の丹波国平定の命を受けた明智光秀の攻撃により落城し、福知山城(当時は福智山城と表記)が築かれました。そして、その名が、そのまま現在の市名として使われています。そう言えば、岐阜という都市名も織田信長が付けたものでしたね。現在の天守は1985年(昭和60年)に再建されたもの。
しかし、注目すべきは、当時のままのこの石垣です。
石垣に、何やら人工的な模様の入ったものが。
実は、これは寺院の宝塔や五輪搭で用いられていたものと思われ、転用石と呼ばれています。福知山城建設の際、石材の不足、短期間での築城の都合、そして横山城時代に権力を持っていた周辺の寺院の破却などの事情から、その寺院の石材を石垣にしたものと思われ、500点余りが確認されているとのこと。
城内には豊磐井(とよいわのい)と呼ばれる大井戸もありました。深さは50m、水深は37mもあり、城としては日本一深い井戸とも言われています。この井戸の標高は43mですので、最深部は海面下7mに達していることになりますね。
築城から、わずか3年後の1582年は本能寺の変の年であり、ここに明智光秀が居城した期間はわずかでした。しかし、その3年で良政を敷き、現在の福知山市の土台を築いたとも言われています。今度は、その城下町へ。
福知山市は空襲を受けていないためか、城下町の風情が今でも色濃く残っていました。写真は紺屋町付近。
時間を止めたような、オロナインの看板。
城下町(旧市街地)にある新町商店街の様子です。年末というのに、本当に静か。今日は天気も穏やかとあって、一層落ち着いた雰囲気が漂っていました。
商店街には、このような掲示板も。とても美しい文字で書かれています。この掲示板は商店街だけでなく、町のあちこちで見ることが出来ました。
表札と郵便受箱の提出。いつ頃のものなのでしょうか。
新町商店街を端の方まで来ると、福知山鉄道館(ポッポランド)と書かれた建物がありました。入場は無料とのことで、ちょっと寄り道。
ここには、以前福知山市内を走っていた北丹鉄道の資料などを中心に展示されています。北丹鉄道は、現在の北近畿タンゴ鉄道(開業時は宮福鉄道)のルート近くを、由良川沿いに走っていた地方鉄道で、昭和46年に運転が休止されました。ポッポランドでは、現在は高架駅となった福知山駅の地上駅時代の光景も、模型で再現されています。
そして、少し離れたところにも、ポッポランド2号館としてSLがありました。
福知山で活躍したC58で、運転台にも上がることができます。
屋内で美しく保存されているのは、うれしいですね。
城下町の中に戻って、こちらは治水記念館。残念ながら年末年始で休館となっていましたが、福知山市の歴史は、由良川の洪水と切っても切れないものがありました。
こちらは昭和28年の洪水での浸水位を知らせる、赤い線。標高20m69cm。2階建ての建物が浸かってしまう高さです。明智光秀が築城後、最初に手がけたのも由良川の治水事業でした。福知山市は標高の低い盆地であり、また川の出口が狭いため、洪水が起こりやすい地形となっています。
その明智光秀を祀る御霊神社。
由良川の治水と、明智光秀の城下町。その歴史を色濃く現在に伝える、福知山市の市内散策でした。
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